『きみの虫歯に乾杯。』
〜オモシロ歯ばなし

<たかのこういち(著)>
<松本隆治(絵)>

「帰ったかね」。

「はい、先週」。

新宿伊勢丹に近い地下の古き佳き酒場。レンガの階段を下り重い木の扉を開けると、右手にカウンターがある。マホガニー製で15人が座れる。他に4人用のソファテーブルが5脚。客は、いつも60%ほどの入り。いつも陽気だ。彼がカウンターに座ったのは、タバコの煙が漂う午後11時。

「聞いた。棄権したそうだね」。

「はい」。

「理由は?」

「恥ずかしくて言えません」。

「なるほど」。彼の前には、女性バーテンダーがいる。キリッと結んだ髪、理知的な瞳が柔らかく彼に向けられている。彼女は、パリの世界大会で、ベストバーテンダーの4人に選ばれたが、そこで棄権した。

「言えない理由か。では、聞かないでおこう」。

「それより会長、ジムをおやめになるとか」。

「ああ、山岸が引退だ」。山岸とは、彼が育てたボクシング全日本バンタム級チャンピオン、山岸五郎のことだ。黄金の右と称される強力な右フックで、世界戦も予定されていた。

「なにかありました?」

「目だ。これ以上戦うのは無理だ」。

「網膜剥離ですね」。女性バーテンダーの横に高齢のバーテンダーがすっと立った。チーフバーテンダーだ。

「恥ずかしいはずですよ、虫歯ですからね」。

「ほう」。彼女は、虫歯で味覚が鈍くなった。完璧な味のカクテルが作れない。やむなく棄権した。

「父親以上の完璧主義者ですからね」。チーフは、彼女の父親のよきパートナー、この酒場を二人で始めた。彼女の父親は、すでに他界している。

「というわけで、今日はスカッチです」。彼の前にウイスキーグラスとチェイサーが置かれた。

「よかろう」。彼はうなづき、グラスを上げて言った。

「きみの虫歯に乾杯」。

 

「汐見先生、虫歯は味覚を鈍らせますか?」私は聞いた。

「虫歯は皆さんが思う以上に重いのです。なにより早期治療ですね」。

新宿の歯を守りたい。汐見先生の願いです。