『歯がゆいメンデルスゾーン。』
〜オモシロ歯ばなし

<たかのこういち(著)>
<松本隆治(絵)>

 

 

最初から結婚には反対だった。髪の長い、切れ長の目をしたやさしそうな彼が、彼女を見ながら言う。

「あのときは賛成したじゃないの」。彼女が、すねたように唇をとがらせる。だが、すぐ笑顔に戻る。

「もう一度、バイオリンをやれよ。離婚をしろって言うんじゃない、子どももいることだし。旦那がきみのバイオリンに反対するのが、そもそもの間違いだ」。

「メンデルスゾーン、バイオリンコンチェルト、か。夢ね」。

やりたいことは、まだまだある。彼女は、窓の外に目を移し、遠い昔を見るように、葉を落としたポプラを眺める。新宿にほど近いカフェに二人はいる。

午後3時。客は少ない。彼女の演奏は、世界に絶賛された。結婚して4年。人々は、彼女を忘れた。

「やるべきだ。離婚してでもやるべきだよ。才能が惜しい。人生は一よ度だ」。彼は無名のピアニスト。子どもたちにピアノを教えている。羨ましい、と彼は思う。一瞬、彼女の才能が、自分にあったらと嫉妬心が顔を出す。バカバカしい。苦笑する。

「メンデルスゾーンが作曲したときのバイオリンを使いたいと、昔、言ったね。その音だけが、曲の本当の姿だと」。

「そうだったね」。

「そのとき、才能の差を知ったんだ。やれよ、バイオリン」。歯がゆい思いで、彼は彼女の顔をのぞいた。

 

「私も歯がゆいですね。みすみす歯周病になるのに、予防できないのですから」。汐見先生は、顔を少ししかめる。

「歯茎下り症ですね」 私が尋ねる。

「はい、流行っています。相談にきてほしいですね」。新宿の歯を守りたい。それが、汐見先生の願いだ。